LOG IN

書くことの弱さ

by miku tsuchiya

名だたる文豪達の中には、己が生きる俗世間に嫌気がさしてこの世を自ら去った者が少なくありません。
有名どころでは川端康成、三島由紀夫、芥川龍之介、そして私が好きな中二病 太宰治などです。
好きだから言うのですが、太宰治なんかはもう手に負えない子供が無理に大人になってしまったような面があると感じています。
太宰に限らず社会的に大人と呼称されている私たちは、無理に社会から大人になることを強いられていると私は思うのですが、そんな私たち大人の「子供な心」と「大人な体」のアンバランスさに苦悩しながら生かされている人間模様を巧みかつ素直な表現で書いていて、それが中二病の私にはどストライクな訳です。
太宰は若くして自殺しましたが、おじいちゃんになっても苦悩している太宰の文章を読んでみたかったですね。苦悩は年月を得ると深みある文章を書かせる気がするのです。

タイトルを「書くことの弱さ」としましたが、別に書く人は弱いと言いたいわけではありません。
ただ弱い人は書こうとする傾向があるなとは正直感じます。
ここで言ってる「弱い」に対して誤解を受けそうですが、弱いと言うか人よか世間や自分に対して細かいアンテナを張っているせいで、普通見過ごすような心の動きや世間の動きにも敏感に反応してしまい人よか心が動いてしまう人だと解釈してください。

いろんな書き方がありますが、基本、書きたいと思っている人って無駄にアンテナ張ってる人だと思います。しかも張るべきところに張ってないで、張らなくてもいいところに張っている類です。張らなくてもいいと言うのはあくまで社会的にという見解で自分的には重要な部分だったりします。
とにかくシンプルに生きられない。
ただネタにはなるんです。そのネタをこの世に出力するのかしないのか、どう出力するのか。
書くのか描くのか、造形するのか、踊るのか何なのか、幸運にもこの世には多くの表現の仕方があります。
特別何かしなくても生きること自体が表現であるとも思いますけどね。
ただそこに存在しているだけなのに、多くに己を乱されて、それでも自分というこの存在を生きる。
常に意識していることではないけれど、自分の外の世界と葛藤しない日なんて無いのでは?

ただ、その弱さとも呼べる葛藤体験が書きたいと思わせていると思うのです。
書くということは無駄に自分と向き合います。
そして、その書いたものを世間に発信するという前提があると、弱さで書いていたのにいつの間にか強みに変わっていたりします。これは自己肯定感のある人に限ったことかもしれませんが、ブログだろうがコラムだろうが、小説だろうが書くことは少なからずその著者の感情が入るものであって、その自分の感情を活字として向き合うと何だか自分も捨てたもんじゃないなと思えてくるのです。
多分、自分の中で混沌としている感情に整理が付くのでしょうね。タイプがタントコトコと進むと充実感すら生まれます。

なぜ書くのか?なぜひとり旅するのか?
ひとり島旅も私にとっては書くことの意味と同じ。
弱さを強さに変換する一つの手段でやっているのかも知れません。
ただ好きだからではない気がするのです。

歴史に名を残す文豪達は活字に喰われて息を奪われた人たちが多く、それはそれで真似のできない魂の燃やし方であり憧れみたいなものもありますが、今は時代がそこまで書くものを追い込む時代ではないからそんな激しい書き方する人もいないですね。

でも精神的に弱っている時ほどスイスイ書けるのは、弱さを何かに変換させようとしているんだと今は考察します。きっと活字に喰われた文豪達も、そうやってもがいていたんじゃないかと。



まぁ文豪気取りにもこの辺にして
しまたびBLOGだけどコラムも書くよ!な私の写真達も見てね!




miku tsuchiya
OTHER SNAPS